海賊の話し  

 

 

        

     死人箱(注1)にゃあ15人、よいとまけほ、ラムが1本よ!

         酒と悪魔がよ、残りの奴あ片付けた .............

           75人で船出したが、生きて残ったはただ一人。

 

 (注1)西インド諸島の小島の名

これはあの有名な「宝島」(R.L.スティーヴンソン)に出てくる海賊どもの歌である。「宝島」といえば、誰でも子供の時読んだことがあろう。海賊、宝探し...少年の胸をわくわくさせる言葉である。“海賊”...何故これほど魅了する言葉なのだろうか。海賊は基本的に社会のあらゆる規範、秩序を嫌い、海という広大な未知の領域に乗り出したアウトローである。黄金や冒険、復讐を求めて、権力や法を無視し、強力なもの、富めるもの、神聖なものに挑戦するその不敵さ、無法さ。活力に溢れ、どんな環境にも順応する智恵を発揮する。我々現代人には不可能な生き方に対する羨望を含めた、共感を覚えるのは私だけではないと思う。加うるに「宝探し(注2)」という人間の本能を刺激するトリガーを持っている。

(注2)宝探しを主題にした小説には、「ソロモン王の洞窟」(H.R.ハガード)、「モンテクリスト伯」(A.デュマ)、「黄金蟲」(E.A.ポオ)がある.

 

 「海賊」の歴史は古く、人類が「社会」の形態を整え出した頃から存在する。(職業という意味では、人類最古の職業は「売春」と言われているが...)紀元前のフェニキア人、ギリシャ人、そしてローマ帝国時代のエーゲ海の海賊、中世に猛威を振るった北欧のヴァイキング、地中海で海賊国家を作ったバーバリー海賊(北アフリカのベルベル人種族が語源、赤ひげ兄弟が有名)、16世紀後半のエリザベス1世時代の私掠船(コルセア注3)、そしてカリブ海海賊(バッカニア注4)につながる。この「海賊の話し」はカリブ海の海賊について述べたいので、それ以前の海賊や現代の海賊、また他の海域(インド洋、極東)の海賊については触れないことにしたい。

 (注3)コルセア(Corsair):

本来は回教徒の私掠船(国家が敵性船舶の拿捕を許可した認可状を持っている船。ただし一定の分け前を納めなければならない。)の意であったが、私掠船一般に拡大され、その後主に地中海から北洋の海賊一般を意味するようになった。有名なコルセアには、エリザベス女王がライセンスを与えたF.ドレーク(後年サーとなり、スペインの無敵艦隊の撃滅に寄与した)、J.ホウキンズ(ドレークと同じ)がいる。バイロンの詩集「海賊」の主人公コンラッドもコルセアと呼ばれる。

 (注4)バッカニア(Buccaneer):

        語源はブカンと呼ばれる「すのこ」を使って、殺した獣をいぶして食用肉を作る猟師である。その後17世紀にスペインの侵略に対抗して、トルチュガという島を根拠地に団結してガリオン船の襲撃等海賊行為を働くようになった。彼らはバッカニアと呼ばれるようになり(フランス人は「フリビュスチェ=自由に掠奪するもの」と呼ぶ)、カリブ海の海賊の総称となった。

 

 映画(注5)や物語に登場する「海賊」はこのカリブ海の海賊を扱ったものが多い。彼らは海賊旗(黒地に白く頭蓋骨と、ぶっちがいに大腿骨を組み合わせた旗)を掲げ航行した。この旗は「陽気なロジャー(Jolly Roger)」と愛称され、「降伏せよ。抵抗する者の運命かくの如し」という威嚇を込めているのである。

       

この骸骨旗が海賊船上に翻っていたのは、海賊の黄金時代(17世紀末〜1730年代)の約30年間の短い時期であったとは驚く。私が最も興味が引かれるのは、この全盛期の海賊なので彼等について少し詳細に述べてみる。これは黄金と戦闘と冒険に満ちたロマンチックな記録といえるかもしれない。

 (注5)私がこれまでに見た海賊映画も、一部を除きバッカニア及びその後の黄金期の海賊の活躍を題材にしていた。記憶に残っている映画を列挙する。

     「シー・ホーク」(1940 ) バッカニアの活躍。H.モーガンが出てくる。

           「宝島」(1950 )ディズニーの劇映画。ラストを除き原作に忠実。

     「姫君と海賊」(1950? )B.ホープ主演の喜劇。「板歩かせ」(後述)が出てくる。

     「真紅の盗賊」(1952 )海賊旗の代わりに真紅の旗を掲げる反逆者の物語。

     「海賊黒ひげ」(1952 )実在の黒ひげが主人公。内容は事実とは異なっているようだ。 

           「大海賊」(1958 )米独立戦争初期のバッカニアの悲劇。U.ブリンナーが貫禄あり。

 

 海賊の黄金時代に入る前に、バッカニアの中で最も偉大な海賊、ヘンリー・モーガンについて触れる。

   

彼は17世紀の後半活躍した海賊で、ジャマイカ島のポートロイヤル(注6)が根拠地であった。モーガンはジャマイカ島総督の委任状を得て、500人の海賊と10隻の小艦隊を率い、キューバ奥地のプエルト・プリンシペを攻略、千頭の肉牛を奪った。次にスペインの要塞があるパナマのポルトペロを大胆に攻撃する。要塞は陥落したが、モーガンは攻撃に際し、情容赦なく大勢の神父や尼僧を前面に立てた。スペイン総督は殺され、市内はほしいままに掠奪され、財宝を奪うために多くの市民が拷問を受けた。この遠征の後、モーガンはマラカイボを急襲、占拠した。その結果、殺人、強盗、強姦はもとより、捕虜の拷問が5週間にわたって続いたのである。これらの遠征でポートロイヤルには巨富がもたらされた。そして最大にして最後の遠征が行われる。目標はスペインが支配するパナマ市である。モーガンは2千人の海賊を率い、巧みな戦略により同市を占領した。市内の掠奪中、火災が発生し、都の大半は焼失した。いずれにせよパナマ市及びその周辺から、多量の金銀財宝を掠奪したのである。しかし引き上げの際、部下の海賊たちが分け前の少ないことに騒ぎ出したため、モーガンは部下の海賊を残したまま、掠奪品の大半を持ってジャマイカにこっそり船出してしまった。ジャマイカでは遠征が大成功をおさめたという理由で感謝状まで送ろうとしたのである。しかし丁度その少し前に英国とスペインの間で平和協定が結ばれていたので、スペインは英国王に強硬な抗議を行った。そのためモーガンは逮捕され、英国で裁判を受けることとなった。だが彼は祖国の英雄として人気が高く、有罪にはならず、逆にサーの称号とジャマイカ副総督の栄誉を授けられたのである。とはいえ、パナマの破壊は重大問題であり、英国政府はジャマイカ新総督に海賊の鎮圧を命じた。総督は副総督のモーガンをこの任務に当て、彼は忠実にこれを遂行した。この「泥棒を警官にする」やり方は大成功であった。モーガンは海賊としては珍しく、ベッドの上で死んだ。(1688

 (注6)ポートロイヤル

     トルチュガ島はバッカニアの根拠地として申し分なかったが,スペイン人の攻撃が繰り返されたため、海賊達は別の根拠地を求め、ジャマイカ島のポートロイヤルに移住した。その後ジャマイカ島には莫大な金品が流れ込み、この町は地球上最も富裕な、そして最も不道徳な都会となった。しかし1692年6月、島全体を強大な地震が襲い、津波も起こってこの都市は一瞬にして地上から姿を消したのである。

 

 1697年のカルタヘナ占領(注7)を契機としてバッカニアは終末を迎えた。この後は一匹狼の単純、純粋な海賊(Pirates)が跋扈した。彼等は前述した通り18世紀初頭から約30年間の間、海賊旗を掲げ、カリブ海は勿論のこと、北アメリカ、インド洋、紅海、ペルシャ湾をまたにかけて荒らし回ったのである。私掠船のライセンスを持っているのはごく少数で、大部分は各国政府のお尋ねものとなった。彼等はあらゆる国籍の船舶を襲い、財宝を奪い、人を殺傷し、無法の限りを尽くしたのである(注8)。また彼等は自分達の船に「ピンク色のマリ」号、「聖なるロザリオ」号、「コーンウォール公爵夫人」号というような不似合いな名前を付けた(注9)。彼等海賊達は一風変ったプライドを持っており、スリ、こそ泥、強盗を軽蔑して、自分達のことを分限紳士(Gentlemen of Fortune)と呼んだのである。

   

 (注7)カルタヘナ占領

     1697年、フランス国王はコロンビアのカルタヘナを攻撃するために、艦隊を派遣した。この艦隊に海賊たちが加わり、フランス海軍及びバッカニアの共同攻撃でカルタヘナは陥落した。しかし、バッカニア達は奪った財宝の分け前に不満で、フランス海軍が本国に帰った後、再度カルタヘナを襲い、多量の金銀を強奪した。ところが、バッカニアの船団は古巣に戻る途中、英、スペインの連合艦隊に遭遇し、財宝の大半を失い、半数が辛うじて逃げ帰ったのである。

 (注8)無法の限りを尽くす

     コルセアと呼ばれた私掠船海賊と彼等との最大の相違点は、捕虜の扱いであろう。黄金期の海賊達は、身代金を取る場合を除き、例外なく乗組員を殺し、船を沈めた。証拠を残さないためである。海賊達は捕虜を殺すのに「板歩かせ」という方法を使った。これは船の舷から海へ突き出した板の上を目隠しして歩かせ、海中に落として溺死させるのである。それに比べて私掠船海賊は、積荷を奪った後は乗員諸共船を解放するのが普通であった。エリザベス1世からサーに叙せられたF.ドレークは解放前に、襲った船の船長を食事に招くことさえした。

 (注9)不似合いな名前

     海賊達は非常に迷信深く、乗っている船の名前を変えると必ず悪いことが起こると信じていた。ロバーツの「大幸運号」、イングランドの「カッサンドラ号」等はその良い例であった。(「宝島」に登場する架空の海賊、フリントの「海象号」も同様である。)

 

 さていよいよこの黄金期の個々の海賊達の中で、“名”を轟かせた又はユニークな海賊船長を挙げてみることにする。

ジョン・アヴェリJohn Avery英)

 海賊の中で最も悪名を轟かせた一人で、「のっぽのベン」というあだ名で人気があった。(後年、彼をモデルにして、ロンドンで「首尾上々の海賊」(チャールズ・ジョンソン作)が上演され、大喝采を博した。)アヴェリは当初武装私掠船(フランス海賊鎮定が目的)の1等航海士であったが、行動開始前に船員を誘い、反乱を起した。そして船長他を小船で流し、船名を「チャールズ2世号」と改め、海賊として出帆した。途中海賊行為を働きながら紅海に廻り、そこでムガール大帝の船団を襲い、莫大な金品を略奪、ムガール朝廷の高官を拉致した。伝説では大帝の美しい王女を強奪し妻にした上、マダガスカルで王侯のように豪奢な生活を営んだといわれる。ムガール大帝はこの行為に激昂し、東インド会社の植民地を叩き潰すと脅した。そこで英政府は多数の海賊を捕らえ絞首台に送ったが、アヴェリはその難を免れた。1696年、彼はボストン総督を買収し、掠奪品を処分した。その後北アイルランドに赴き、船を売り払い、分け前を分配して海賊一味を解散したのである。アヴェリはブリストルに行き、ダイヤや金杯等を売り払うことにした。しかし商人達の方がはるかに上手で、金を後で送ると言いながら、全く約束を守らなかった。そのためアヴェリは病床に伏し、棺桶さえ買う金を持たず、田舎屋で息を引き取ったのである。これがその名を欧米に鳴り響かせた「偉大な海賊」の末路であった。

 

ウィリアム・キッドWilliam Kid英)

   

 最も有名な海賊の一人で、通称キャプテン・キッドと呼ばれた。しかし実際にはその名声は実を伴わない虚名であった。キッドも最初はニュー・イングランド沿岸のイギリス海賊討伐のために仕立てられた私掠船「アドヴェンチャー号」の船長であった。出帆後1年経っても分捕り品が少なく、船員達は不満を漏らし始めたある日、キッドは船の砲手長と喧嘩をし、彼を殴り殺してしまった。この事件を契機にキッドは海賊となり、成功を収めたのである。彼の得た最大の成果は、500トンのアルメニア船「クェダ・マーチャント号」で、東洋の物産に黄金まであった。彼らはマダガスカルで獲物を分配したが、出帆後自分達が海賊としてお尋ね者になっていることを知った。そこでキッドは当初の出帆地ニューヨークに戻り、株主であった総督を口説いて無罪を得ようとしたが、すでに英本国において海賊としての逮捕状が出ており、彼は逮捕されロンドンに送られてしまった。裁判の結果、主として前述の殺人罪で絞首刑となり、見せしめのため数年間テムズ河の上に晒物になったのである。キッドが奪った財宝は、彼の逮捕後も見つからず、これが「キッドの財宝伝説」となった。ポウの「黄金蟲」では、このキッドの財宝を発見したことになっている。

 

バーソロミュウ・ロバーツBartholomew Roberts 英)

 

 “ここに男あり”と謳われたほどの豪胆無類の快男児であり、彼の戦闘姿はまさに伊達男であった。また色々な点で特異な海賊でもあった。第1に禁酒主義者でお茶しか飲まなかった。第2に厳格な規律励行者で、船内では消燈は午後8時と決まっていた。第3に女性が船内に入ることを許さなかった。第4に賭博が嫌いで、一切の賭け事を禁じた。第5に船内での暴力沙汰は絶対に許さなかった。喧嘩は陸上に上がって決着をつけねばならなかった。また女性の捕虜を保護するために見張りをおいたが、美しい女性の見張り役になろうとして争いが絶えなかったという。

 1719年、ロバーツは奴隷船の船長として航行中、海賊に捕らえられてその一味に加わることになった。ところがその船長が襲撃中に殺されたので、後釜にわずか海賊商売6週間のロバーツが船長に推されたのである。ロバーツは初めにブラジルのバヒア湾でポルトガルの船団を襲い、最大の船を積荷諸共拉致してしまった。次に西インド諸島のジャマイカとバルバドス間を荒らし回り、危なくなると北上し、英仏の漁船団や植民地を掠奪したのである。最後にギニア沿岸を荒らし回ったが、1722年、ついに英国軍艦に発見され、ロバーツの乗船「大幸運号(Royal Fortune)」は猛攻撃を受けた。ロバーツは捕まって死ぬのはごめんだと一張羅を着込み雄雄しく奮戦した。しかし大半の海賊は2日酔いで反撃に移ることができなかったのである。戦闘開始後間もなくロバーツはぶどう弾の直撃を喉に受けて即死した。彼の死体は指示通り部下により海中に投じられた。ロバーツが拿捕した船舶は400隻にのぼり、これは海賊史上最高の記録であった。

 

■女海賊アンとマリ

 2人とも美貌の女海賊として有名であった。(但し船長ではない)

1.アン・ボニイAnne Bonny 英)

   

   弁護士と女中の私生児として生まれたが、長じて気性の激しい、乱暴な、大柄の女となった。普段は善良で、親孝行な娘であったが、ナイフで女中を刺し殺したこともある。色恋も激しく、何度も情事を重ねた。そのうち「女たらしのジャック」と呼ばれる海賊ジョン・ラッカム(後述)

  の恋人となり、水夫の服を着て共に海に出た。楽しくハネムーンをおくりながら海賊として男勝りの活躍を続けていたが、1720年ジャマイカ近辺で英軍艦の攻撃を受けた。交戦になったが、海賊共は臆病で下甲板に追い込まれてしまった。アンと友達のマリ(後述)だけが、捕虜になるまで男達の意気地無さを口汚く罵りながら勇敢に戦ったのである。彼女達も含め、海賊は全員ジャマイカで死刑の判決を受けた。アンは妊娠を理由に死刑執行を延期され、その後更に減刑されたが、最後はどうなったか不明である。処刑の当日、ラッカムは特別にアンとの面会を許されたが、彼が恋人から得たのは次のような言葉であった。「こんな所でお目にかかってお気の毒ね。でもあんたが男らしく闘っていたら、犬みたいに首をくくられずにすんだかもしれないわ。」

 

2.マリ・リードMary Read 英)

   

彼女は幼少の頃から少年として育てられた。13歳で給仕になり、後フランダースの歩兵部隊に入隊した。やがて騎兵隊に移り、同僚の騎兵と恋に落ち、制服を脱いで結婚すると表明し、連隊内は大騒ぎになった。二人は除隊して居酒屋を経営したが、新郎が早死にしたので、再度男装してオランダの歩兵部隊に入隊した。しかし軍隊生活にあきると、今度は船員として船に乗り込んだ。この船は途中で海賊ラッカムに捕獲され、マリは他の連中と共に海賊一味に参加した。その後ラッカム一味は特赦状をもらったが、足を洗うことができず、ラッカムはアンやマリを連れて再び海賊稼業を始めた。彼等はジャマイカの船舶を多く捕獲したが、マリはその中の若い船員に恋をし、彼が海賊の一人と喧嘩し決闘を行う羽目になると、自ら恋人の身代わりになり、相手に喧嘩を売った。マリはピストルの名手だったので相手を倒したのである。その後間もなく彼女はラッカム等と一緒に逮捕され、死刑の宣告を受けた。法廷は初め、マリを釈放しようとしたが、次のような証言があって、彼女にも絞首刑の判決が下されたのである。それはラッカムがかってマリに「こんな危ない商売の何が面白いんだ?うまくいっても縛り首じゃねえか」と言うと、彼女は次のように答えたという。「縛り首なんて屁の河童さ。縛り首がなけりゃ、臆病者が皆海賊になり、勇気のある者が飢え死にすらあ」現実はマリも妊娠中だったので、刑の執行は延期になり、結局熱病のため獄中死した。

 

ジョン・ラッカムJohn Rackam 英)

   

    いつもキャラコ製の衣服を着用していたので、「キャリコ・ジャック」の異名がある。1718年以降海賊船長としてカリブ海を荒らし回った。翌年特赦状を得て陸に上がった時、アン・ボニイの恋人となり、その後共謀して船を盗み、海賊に戻った。ジャマイカ付近で軍艦に捕まり、絞首刑となり、死体は晒し者となった。

 

エドワード・ティーチEdward Teach 英)

     

 「黒ひげティーチ」と呼ばれ、残忍無類の海賊として名を轟かせた。1717年「復讐号」の船長として、カリブ海を荒らし回った。その後総督に降伏して特赦状をもらい、14人目となる16歳の少女と結婚した。彼は根っからのサディストで、妻を一晩抱いた後は、荒くれ男達を招き、目の前で全員に売春させる習慣があった。その後再び海賊に戻ったが、英軍艦に急襲され、重傷を負い死亡した。彼の首はヴァージニアで晒し首となった。

 

エドワード・イングランドEdward England 英)

 人道主義的な感情を捨てきれない、いうなれば「弱い海賊」であった。1719年には多くの船を襲い、大きな成果を上げた。しかしインド洋である船の船長に対し、部下の主張を退け、殺すどころか逃がそうとしたのである。怒った部下達は彼をモーリシャス島に置き去りにした。イングランドは何とか小船を作り、マダガスカル島に脱出、そこで余生を送ったといわれる。

ハウエル・デイヴィスHowell Davis 英)

 初めはイングランド(前述)の子分として、海賊稼業の手ほどきを受けた。後ある商船に乗船中、仲間と共謀して船を奪い、海賊船長となった。イスパニョラ島などで荒稼ぎをした後、ギニアのガンビア城を襲ったが、目指す大金は手に入らなかった。その後プリンセス島の襲撃を企てたが、逆に銃で撃たれ死亡した。

 

フィリップ・ローチェPhilip Roche 英)

 アイルランド生まれの極悪非道な海賊。1721年船員として乗り込んだ船で反乱を起し、船長以下を惨殺し、船を奪った。その後彼は北大西洋を荒らしまわったが、軍艦に追われ、単身上陸してロンドンに逃れた。そこで当局に怪しまれ、逮捕されて、絞首刑となった。

 

エドワード・ロウEdward Low 英)

 少年時代から悪事を重ね、狡猾で残忍な海賊。カリブ海からアフリカ西岸まで荒らし回り、ホンデュラス湾でスペイン船を襲った時は、乗員を皆殺しにした。その際命乞いをしているスペイン人の口中に銃を突っ込んで発射するなどの残酷な手口を示した。このような残忍無類の彼の手口に、さすがの子分連中も怒って謀反を起し、ロウを小舟に乗せて海上に置き去りにした。翌日彼はフランス船に救助されたが、絞首刑になったといわれる。

 

ステード・ボンネットStede Bonnet 英?)

 紳士で、退役将校、資産があり、高等教育を受けたインテリ海賊。1717年のある日、突然彼は「復讐号」を指揮し、海賊となった。原因はよく分らない。一説には妻に虐められて気がふれたと言われる。一時前述の黒ひげティーチと組んだが、彼の死後、キャプテン・トマスと名を変え、海賊稼業に精を出した。1718年逮捕され、絞首刑となった。

 

ウイリアム・フライWilliam Fly 英)

 初めは甲板長であったが、彼も船長及び上級船員を殺し、船を奪って海賊となった。アメリカ沿岸で掠奪を重ねたが、ある時捕獲した船の捕虜達に船を奪回され、捕まってしまった。フライは絞首刑となったが、海賊寿命3ヶ月で、これは海賊史上最短である。

 

トーマス・ハワードThomas Howard 英)

 テムズ河の灯台守であったが、父の遺産や母の分け前を使い果たし、果ては家まで売り飛ばす極道者となってジャマイカへ逃げ、そこでならず者を集めて、海賊となった。カリブ海から大西洋一帯を荒らしまわったが、マラバルで掠奪品の分配中、仲間同士で喧嘩が起こり、船を失ってしまった。そのためハワードはインド洋沿岸の土民の娘と結婚しそこで暮らすことになった。しかし彼は妻を虐待したため、彼女の家族に殺されたのであった。

 

ジョン・スミスJohn Smith 英)

 通称ガウ。若い頃から船乗りであったが、1724年仲間と反乱を起し、船員を殺し、船を奪った。船名を「復讐号」とし、海賊稼業を始めたのである。ポルトガル沖で活躍後、故郷のスコットランドに戻り、幼馴染の女性と結婚することにしたが、海賊の正体がバレてしまった。彼は本性を現し、付近の町村を襲ったり、娘を2人誘拐暴行するなど狼藉を働いた。しかし逃げる時、船が座礁し、捕まって絞首刑となった。

ウォリイWorley 英?)

 彼も海賊稼業は短かったが、その門出は前代未聞であった。1718年わずか8人の仲間と小舟でニューヨークから出帆した。その後船も大型に乗り換え、仲間も増えた。彼等は堂々と髑髏の海賊旗を掲げ、全世界を敵とし、いかなる場合も降伏せず、最後の一人まで戦うと誓いあったのである。その後アメリカ沿岸で2隻の軍艦の攻撃を受け、海賊達は勇敢に戦ったが、ウォリイ他1名を除き、全員全滅した。捕まった彼等は絞首台の露と消えた。

 

スプリッグスSpriggs 英?)

 前述のロウの一味で舵手を務めた。その後彼は仲間とロウに反旗を翻し、船を奪って西インド諸島に逃走した。途中ポルトガル船を捕獲すると、彼は残虐な性格を見せたのである。それは甲板上にナイフやフォークを持った海賊達が輪を作り、捕虜の船員を一人づつその輪の中を走らせて皆で突っつくという加虐的な遊びであった。また旧知の海賊と出合うと,彼の船を焼き、彼自身を島流しにするという無法ぶりも示した。しかしスプリッグスも軍艦に追跡され、船を失った上、森林に逃げ込み消息を絶った。

 

チャールス・ヴェインCharles Vane 英)

 ニュープロヴィデンス島に新総督が着任すると、同島を根拠地としていた海賊達は皆降伏して特赦状をもらった。しかしヴェイン一味だけは海賊旗を翻しながら逃走し、カリブ海を中心に多数の船を攻撃、金品を奪ったのである。1年後彼等の船はトルネードに襲われ、無人島に座礁してしまった。航行中の船に救われたものの裏切りに会い、ヴェインはジャマイカで絞首刑に処せられた。

 

 

 これで一通り黄金期のカリブの海賊達の紹介を終えたので、この「海賊の話し」は一旦終了することにする。将来コルセア達、特にエリザベス1世時代の華やかな海賊達に触れる機会があれば幸いと思う。

 現在の基準からすれば、海賊行為は立派な犯罪行為であり、彼等は冷酷で残虐な悪人達である。しかし黒色の海賊旗を翻し、7つの海をまたにかける海賊達の姿に、単なるアウトローだけでない冒険家を想像し、胸を躍らせるのは非常識であろうか。私はそうは思わない。300年前の彼等の姿に大いなるロマンを感じるのである。いまは亡き海賊達に栄光あれ!

 

 ここで利用させてもらった文献を下記に上げる。無断借用はお許しあれ。

    ・「世界の海賊戦記」フィリップ・ゴッス著 大場正史訳 (徳間書店)

    ・「カリブの海賊史」ジョルジュ・ブロン著 三輪秀彦訳 (早川書房)

    ・「海賊の歴史」ヤツェク・マホスキ著 木村武雄訳 (河出書房新社)

    ・「キャプテン・キッド」別枝達夫著 (中公新書)

    ・「宝島」ロバート・ルイス・スティーヴンソン著 西村孝次訳 (角川文庫)

 

文責 永田 12/20/2006